執筆者:札勘スイマー
2022年07月15日

前回のエッセイで、歴女となる所以についてお話しました。
もう2年以上もコロナ禍が続いており、満足に旅行にも行けない日々が続いています。
そんなある日、東京都日野市にある「土方歳三資料館」が今年の11月で長期閉館になるというニュースを目にしました。
京都の「壬生寺」・「池田屋跡」、会津若松、函館の「一本木の関門跡」・「五稜郭」と新撰組ゆかりの土地を旅してきた者としては、閉館までには訪れておかないといけないという使命に駆られ、コロナウイルスの猛威が少し落ち着いていた7月初旬、東京都日野市まで行ってきました。

新撰組副長の土方歳三は、現在の東京都日野市石田村で豪農の四男坊(末っ子)として誕生しました。歳三は生涯独身で彼の直系親族はいませんが、実兄の家系が健在ということで、その方々が現在資料館を管理しています。ただし、資料館となっている場所は土方家の私的なもので、開館日は毎月第1・3日曜日の2日間のみとなっています。

資料館に行く前、私たちが先ず訪れたのは、元々の生家の場所である「とうかん森」という所です。歳三の生家は元々この付近にありましたが、1864年の洪水で流されそうになった時、石田村や近村の人々が駆けつけ、母家と土蔵を解体し現在の土方歳三資料館の場所に移築したと伝えられています。

次に向かったのは、歳三のお墓がある石田寺です。命日の5月11日のみならず、歳三を慕う多くの参詣者が訪れています。私たちも歳三のことを思慕しつつ、手を合わせてきました。
また、寺内には「石田寺の榧(カヤ)」(日野市指定天然記念物)という榧(カヤ)の大木がありました。

そして、いよいよこの旅のメインである「土方歳三資料館」へ向かいました。
日野(最寄りは多摩モノレールの万願寺駅)に降り立ってから、日曜日のお昼間なのに人通りが少ないと感じていたのですが、この資料館だけは館内に溢れんばかりの人たちがいるのです。館内はそれほど広くはありませんが、展示物の前には順次、人が列を成している状態でした。
この資料館には、歳三の愛刀「和泉守兼定」や鎖帷子などの武具、写真や手紙などが展示されています。1点ずつじっくりと貴重な品を拝観し、ここでも歳三への想いを募らせながら、感慨に浸っていました。
また、土方家の家伝薬である「石田散薬」に関連する資料や稽古に使用していた「天然理心流」の木刀など、70点余りが展示・公開されています。武道を志したときに手植えしたとされる「矢竹」が庭先に残されていたり、少年時代に相撲の稽古をした旧家屋の大黒柱が梁として使われていたりと、ファンにとってはとても興味深い品々の数々でした。

資料館を後にしてからは、甲州街道中の日野宿脇本陣跡や井上源三郎資料館の前を通り、八坂神社でお参りをしてから岐路につきました。

「新撰組」といえば、暴力的な「人斬り集団」と言われたりと否定的な意見もあるかと思います。しかし、その一方で、隊員それぞれの人生にドラマ性があり、それらは私たちを魅了することから、小説や映像化され世に発表されています。
歳三は、同郷であり、幼い頃からの間柄であった局長である近藤勇を支え、知恵もあり策士的な歳三が存在しなければ、「新撰組」としての活躍は無かったことでしょう。
また、「鬼の副長」と呼ばれていた歳三ですが、それは「新撰組」を統率するためであり、普段は温厚な性格であったと言われています。
享年35歳、自分の信じた人に対して決して裏切らず、自分の決めた道を貫き通すという誇りや信念、そして覚悟を持った「漢気」ある歳三に今もなお人々は惹きつけられるのでしょう。

この夏、ゼミのテーマで取り扱っていた司馬遼太郎氏の作品である「燃えよ剣」を改めて読み直そうと思います。