執筆者:気まぐれシェフ
2005年02月15日

お年寄りが咳き込む姿をときたま目にする。電車の中で、街を歩いていて、レストランで、喫茶店で。なんの前置きもなく、突然、げふぉげふぉと激しくせき込むのだ。
そのたびに「シゲヨさん、ほら水、水。」と、周囲の人に介護されている。そしてしばらくするとケロッとおさまって「あーびっくりした。」と、どひゃひゃ~と笑うのだ。
おいおい、びっくりしたのはこっちのほうだって。
誰だって、目の前でお年寄りが顔を真っ赤にして呼吸困難におちいったら、このまま死んじゃうかもとハラハラしてたまったもんじゃない。

なんであんなに咳き込むのか理解できない。だってむせる原因になるようなものが見当たらないのだ。辛いものも食べてなけりゃ煙くさくもない。なのに彼らはナミダ目でむせ続けるのだ。
まったく、しっかりしてほしい。

ところが、近ごろむせるのである。
誰が?このワタクシが。

もちろん、まだまだ彼らベテランのような堂にいった咳き込み具合でもないし、その回数も数えるほどだ。しかしそれでも、確実に着実にその回数は増えている。
やはり何といっても危険なシチュエーション第1位は食事どきだろう。ミカンやグレープフルーツなんていう柑橘系のみずみずしい果物を口にするときは特に注意が必要である。やつらはフルーツ界の刺客なのだ。
あの小さなツブツブのひと粒でもはじけてノドの奥をピッと直撃しようものなら、途端にグフッと息が詰まる。
しかし何も口にしていなくても油断はできない。何か話そうとして息を吸っただけでむせたこともあった。
どうやら私のノドは、やってきたモノを瞬時に食道と気管に選り分けるという重要な任務が重荷になってきているようである。
ノドの反射神経が(そんなものがあるのかわからないけれど)鈍ってきているに違いない。いままで「難なく」済んでいたものが「難あり」になったのである。なるほど、これで少しはお年寄りの気持ちがわかってきた。
ということは、ジャッカン近づいたということか。

そういえば、最近は体重もコントロールできない。
つい1年前までは2、3キロの減量なんて朝めし前だった。食べ過ぎて太っても「あら太ってる、気をつけなくちゃ。」と思っただけで、数日後には不思議と体重は戻っていた。
それが戻らなくなった。
なぜかしらーと呑気に言っていると、同僚のK原嬢に「そういう歳になったってことですよ。」とバッサリやられた。
うーむ。
気にも留めていなかったが、そう言われてみれば確かに思い当たることはある。
学生のころは徹夜もお茶の子サイサイだったし、一週間飲み会続きでもへっちゃらだったが、今は翌日とさらに翌々日の予定を考えて躊躇してしまう。
真夏の炎天下でのバーベキューもしょっちゅうだったし、釣りや川遊びやアスレチックをして最後は寝袋で寝て締めるキャンプなんて大好き中の大好きだったが、今そんなことをしようものなら、もはや再起不能に違いない。せめて最後はベッドで眠りにつかせていただきたい。
十分睡眠をとりすがすがしい気分の私に向かって「疲れてるんじゃない?顔色悪いよ」とヘコむ一言を浴びせた友人なんてのもいた。
まだまだ悲しい現象はたくさんあるが、これ以上書き並べても一人老化自慢大会になってしまうことに気づいたのでここらへんで打ち止めとする。

相変わらずなのは、「おっさんみたい」と言われる食の太さと重い荷物もガッチリ持てる腕っぷし、通勤時に50段以上ある駅の階段を一気に駆け下りることのできる頼もしい足腰といったところだろうか。
せめてこれらだけは維持しなければ、またバッサリやられてしまう。これ以上の深手は負いたくない。
デューク更家氏にすがろうか、などとちょっとあせる今日この頃である。

先日素敵なお店へ食事に行った。
ライトダウンされた、クラシックなBGMが流れるムーディーなお店だった。
静かにゆっくりと時間が流れるその店で、美しく盛り付けられたお皿を前に会話もはずみ、気分は上々である。皆さまにも、ホホホ…と微笑む楚々とした私の姿が容易に想像できることでしょう。
しかし、ワイングラスに口をつけたその時、悲劇は起きた。

ひっ。

いかん、いかんぞ。このままではむせてしまう。こんな静かな空間で?
絶対ありえない。雰囲気をぶち壊すような醜態だけはさらしてはならじ。
息を止め、腹筋に力をいれ、目をシロクロさせ、それはそれはもう必死の抵抗であった。
その甲斐あって、店中に響き渡る荒々しい咳き込みも、男前のウェイターたちに「お客さま大丈夫ですか」と駆け寄られる失態も、周囲の客から送られるであろう冷ややかな視線も、すべて未然に防ぐことができた。
背中は冷や汗でぐっしょりだったが、とにもかくにもぎりぎりセーフであった。

ただひとつ悔しかったのは、一緒にいた人に「水飲んだら。」とシゲヨさんと同じ扱いを受けたことである。
くそー。