江戸時代以降、大坂船場は、商人の町、商業の町としてのアイデンティティと経済力で、日本中から一目を置かれるようになりました。
しかし、同時に、商売や経済活動とは異なる学問や教育の分野でも多くの実績を残してきました。江戸よりもむしろ輝かしい歴史を残してきたと言えます。そして、その高い水準に触れるべく、各地から学者、文人、画家、書生たちが集まってきました。
今回はその延長として、船場また大阪(大坂を含む)で展開された文化・芸術・芸能などをレビューしてみたいと思います。
この分野においても、主役はやはり商人、民間人であり、彼らが文化の創造者であり、また経済的支援を通じてその育成に寄与しました。
武士階級や中央機関がイニシアティブを振るってきたものではないので、自由で肩の張らない文化活動や芸能・娯楽が発展してきました。これは今も大阪人の誇り、矜持とするところです。
1 俳諧・俳句
俳諧と松尾芭蕉
俳諧とは昔の「連歌」から発達したものです。最初に始めたのは室町時代末期、京都にいた松永貞徳(「貞門派」)でした。大坂では、そりよりも自由な発想のもとに滑稽味を追求するようになり、17世紀中頃、大坂天満宮にあった連歌所の西山宗因を代表とする「談林派」という新しい俳諧がうまれました。
俳諧で歴史上もっとも有名なのは「松尾芭蕉」です。
芭蕉は1644年(寛永21)伊賀上野に生まれ、西山宗因に学んだ後江戸に出て、その後は生涯日本各地を旅して俳諧(発句、のち俳句)を詠みました。大坂に根付いて長く暮らした人ではありませんが、大坂には有力な弟子がおり、その育成や句会などを通じて、大坂でもその存在感の大きかったことは間違いありません。また、大坂は芭蕉にとってその生涯を終えた土地でもあります。
1694年(元禄7)、9月7日、弟子の支考、惟然らを伴い、病気をおして故郷の伊賀を出立しました。大坂の門人、之道(しどう)と酒堂(しゅどう)の喧嘩の仲裁と、大坂の弟子たちに会うのが目的でした。
奈良街道から生駒山の暗峠にさしかかったとき、9月9日、ちょうど重陽の節句に合わせて、「菊の香に くらがり登る 節句かな」の句を残しています。
到着した酒堂宅で、9月29日、高熱、悪寒で倒れました。それでも、住吉神社の句会に出て、「升買うて分別はかる月見哉」という句を残し、また、浮瀬亭の句会に出て、「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ」という句を残しています。
その後、宿を南御堂前の花屋仁左衛門宅の奥座敷に移しましたが、病気が悪化、芭蕉はここで51歳の生涯を終えることになります。
10月8日に詠んだ句が有名な辞世の句。「旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る」。
これの句碑が、現在も南御堂(難波別院)境内に立てられています。
また、南御堂の前、御堂筋の車道に挟まれた緑地帯に「此附近芭蕉翁終焉の地」の石碑が立っています。
小西来山
俳諧師。1654年、船場淡路町3丁目の薬種商に生まれました。7歳で西山宗因の門に入り、松永貞徳の貞門派に対して、18歳で談林派の師匠の立場になりました。大坂を代表する俳人です。
和歌を重視する貞門派に対して自由で笑いの要素が強いのが談林派です。
代表作に、「お奉行の 名さえ覚えず とし暮れぬ」というのがあります。大坂のど真ん中の淡路町に住みながら大坂で一番えらい町奉行の名前も知らずに年を過ごした、というのは大坂町人の心意気が現れていますが、後にこのことでお上からお咎め受けることになりました。
1681年(天和元年)、「大坂八十五韻」(句集)を出し、大坂の俳諧の第一人者となりました。48歳で母を亡くしたときに詠んだ句、「今日の月 只暗がりが 見られけり」。
一心寺内に小西来山の墓があります。
井原西鶴
矢数俳諧と小説「日本永大蔵」で有名です。
1642年(寛永19)、大坂船場鎗屋町の大商人の家に生まれました。15歳で俳諧を始め、西山宗因に入門し、自由奔放な句を詠みました。
一昼夜に作る句の数を競う「矢数俳諧」を得意とし、住吉神社で一昼夜に23,500句を独吟した記録が残っています。このとき上記小西来山がその立会人をつとめていました。
その後宗因の死をきっかけに、俳諧から浮世草子(小説)に転身し、有名な「好色一代男」、「日本永代蔵」などを著しました。大坂を舞台にした町人の生活をいきいきと描いています。
日本の近代文学の祖と言われます。
東横堀川の東岸、本町橋の北に「日本永代蔵」の一節を刻んだ「井原西鶴文学碑」があります。
また、生国魂神社境内に西鶴の座像があります。
日本永代蔵の一部(口語訳)を紹介しておきます。
大坂北浜の難波橋から西を見渡した風景はすばらしく、数千軒の問屋が屋根を並べ、土蔵の白壁の白さは雪の曙の風景にもまさるほどである。杉の生えた形のように積み上げた米俵は、あたかも山がそのまま動くように馬に積んで送ると、大道はとどろいて地雷がさくれつしたような感じである。
大福帳は雲のようにひるがえり、算盤(そろばん)をはじく音はあられが走っているようだ。
大阪市立開平小学校編著「わが町船場」から引用)
松瀬青々(まつせせいせい)
大阪大川町出身の俳人。明治2年(1869)~昭和12年(1937)
「倦鳥」を創刊。関西俳壇でホトトギス派の俳人として重きをなしていました。
三井住友銀行大阪本店の東玄関前に「松瀬青々生誕の地」の碑が立てられています。
正岡子規の「ホトトギス」への投句で才能を認められ、関西の高浜虚子と呼ばれていました。
菜の花の はじめや北に 雪の山
元旦や 目出度顔なる 貧乏人
水落露石(みずおち ろせき)
俳人。明治5年(1872)~大正8年(1919)
船場安土町の裕福な商家に生まれました。府立大阪商業学校(現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院で藤澤南岳に漢学を学びました。その頃から俳句を始め、正岡子規に師事。京阪満月会を、また大阪満月会を興しました。上記松瀬青々もこれに続きました。大阪俳壇の重鎮として子規を助け、与謝蕪村の研究家としても貢献があり、高浜虚子の「ホトトギス」の発行にもかかわりました。
楠本憲吉
俳人。大正11年(1922)、北浜2丁目の料亭「灘萬」に生まれました。灘中を経て慶応義塾大学法学部卒。1945年から句作を始めました。「野の会」を主宰し、俳句作家連盟会長などを歴任しました。一般向けの随筆も多く、女性論、家族論、食事、酒など話題が豊富で、また洒脱な語り口でテレビにもしばしば出演しました。「船場育ち」という回想録も上梓しています。
2 小説
上田秋成(うえだあきなり)
1734年(享保19)大坂に生まれ、木邨兼葭堂など多くの文人や学者と交流し、小説家としてだけでなく、俳諧を楽しみ、茶人、国学者としても活躍しました。
40代から50代にかけて、船場の淡路町、高麗橋に住み、医師としても働いていました。
代表作の「雨月物語」は、その頃に発表された怪談小説です。
谷崎潤一郎
明治19年(1886)~昭和40年(1965)。
関東大震災で関西に移住。松子夫人との出会いもあり、上方文化に心酔しました。
映画化もされた「細雪」は船場の旧家を舞台に、四姉妹の日常生活の悲喜こもごもを綴った小説。
「春琴抄」は道修町が舞台。春琴の家は道修町の薬種商。平成12年、少彦名神社の入口に「春琴抄の碑」が建立されました。
藤澤桓夫(ふじさわ たけお)
明治37年(1904)~平成元年(1989)
有名な漢学塾であった「泊園書院」(備後町2丁目57)で生まれました。「泊園書院」は桓夫の曾祖父藤沢東畡が興し、祖父藤澤南岳が継いだもので、淡路町1丁目に「泊園書院跡」の碑があります。
桓夫が1936年に書いた小説「花粉」は秋田實がモデル。「大阪自叙伝」、「大阪の人」などの作品が知られています。
プロ棋士並みと言われた将棋の達人でもありました。
香村菊雄
明治41年(1908)伏見町の仕出料理の老舗「伏佐」に生まれました。
「定本船場ものがたり」は船場の百科事典、名随筆。船場の風習、しきたり、言葉などを知るためには欠かせない一冊です。
織田作之助
大正2年(1913年)~昭和22年(1947)
大阪市天王寺区で、仕出屋の長男として生まれました。秀才の評判高く、旧高津中学から第三高等学校(京都大学)に入学。病気を得て後は作家を志望。
代表作は、「夫婦善哉」、「女の橋」、「船場の娘」、「大阪の女」など。
「夫婦善哉」(めおとぜんざい)は1940年に発表した5作目で、織田が本格的に世に出るきっかけとなった代表的作品です。
大正から昭和にかけての大阪を舞台に、北新地の人気芸者で陽気なしっかり者の女と、安化粧問屋の若旦那で優柔不断な妻子持ちの男が駆け落ちし、次々と商売を試みては失敗し、喧嘩しながらも別れずに一緒に生きていく内縁夫婦の転変の物語。
終戦後は、太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれます。
花登 筺(はなとこばこ)
昭和3年(1928)~昭和58年(1983)。
滋賀県の近江商人の家に生まれ。一時大阪の綿糸問屋に勤務したものの病気で退職、以後作家を目指して、ラジオ局へドラマの脚本を持ち込み、フリーの脚本家として次第に採用されるようになりました。
昭和30年代の上方喜劇ブームのときはその立役者でなり、テレビ普及時におけるスター脚本家であり、劇団喜劇の主幹にもなりました。高度経済成長期の大阪商人を主人公とする商魂物、根性物を多数執筆し、生涯に書いた脚本の数は6000本を超えると言われます。
主な作品には、「番頭はんと丁稚どん」(道修町の薬問屋)、「船場」、「道頓堀」、「細うで繁盛記」、「あかんたれ」、「鮎のうた」、など。
山崎豊子
大正13年(1924)~平成25年(2013)。
船場、順慶町で生まれました。実家は老舗昆布屋の「小倉屋山本」。その3代目店主の実妹。
毎日新聞勤務中に学芸副部長であった井上靖の指導を受け、勤務のかたわら小説を書き始めました。
デビュー作の「暖簾」は生家の昆布屋をモデルにしたもの。明治時代に淡路島から単身大阪に出てきた少年が、つらい奉公や戦災の惨禍を乗り越え一人前の昆布商人として成長していく物語。
そのあとがきで山崎は、「大阪の中核をなすのは、古い暖簾をもつ船場の商人たちです。・・・私はこの本の中で、私の理想の大阪商人を描いてみました」と述べています。出版後すぐに映画・ドラマ化され人気を博しました。
続いて、吉本興業を創業した吉本せいをモデルにした「花のれん」。これで直木賞を受賞し、以後新聞社を退職して作家生活に入りました。
初期の作品は船場など大阪の風俗に密着した小説が多く、その代表が息子の放蕩、成長を通して商魂たくましく生き抜く大阪商人の典型を描いた「ぼんち」であり、市川雷蔵主演により映画化されました。
その後、「女の勲章」、「白い巨塔」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」、「二つの祖国」、「太地の子」、「沈まぬ太陽」、「運命の人」などを上梓、文学賞の受賞も多数回。多くの作品が映画化されています。
山﨑豊子文化財団が、9月29日に「豊子忌」を営んでいます。
朝井まかて
1959年、大阪府羽曳野市生まれ。
船場との関わりは、2012年に出し、大ヒットした「すかたん」。江戸出身の女主人公が、船場のまちや風習にとまどいながらも青物市場で奮闘する物語。
2013年、歌人・中島歌子の生涯を書いた「恋歌」では本屋が選ぶ時代小説大賞と直木賞を受賞しましたが、同じ年に、井原西鶴を主人公とした「阿蘭陀西鶴」を出し、で織田作之助書を受賞しています。
2019年、大阪府と大阪市が大阪の文化や芸術の振興に功績のあった人を顕彰する「大阪文化賞」も受賞しています。
3 人形浄瑠璃・演劇・能楽・落語・
人形浄瑠璃
人形浄瑠璃というのは、義太夫の語りに合わせて文楽人形を操る芝居で、多くの人の娯楽、習いごととして親しまれていました。
江戸初期、竹本義太夫という浄瑠璃の語り手と脚本家の近松門左衛門が完成させた人形浄瑠璃は一時の黄金時代を過ぎて、その後低迷を続けていました。それが「文楽座」の活躍で再び船場の地で人気を博することになりました。
「文楽座」の創設は淡路島出身の植村文楽軒。2代目文楽軒は船場博労町の稲荷神社に小屋を建てて興業を行いましたが、3代目のときいったん他の場所に移転します。明治17年(1884)、再び船場に戻り、御霊神社内に小屋を建てて興業を始めました。これが「御霊文楽」と言われるもので、稲荷神社で興業するライバルの「彦六座」と競い合いながら、再び大阪の人形浄瑠璃の黄金時代を築き上げました。
昭和49年(1974)、御霊神社境内に「文楽座跡」の石碑が建てられました。
帝国座の新劇
船場、北浜4丁目、住友信託銀行南館前に「帝国座跡」の碑が立っています。
ここは、江戸時代、両替商升屋平右衛門の屋敷があったところで、その後大阪最初の小学校、北浜小学校となり、その跡地に建てられたのが帝国座です。
オッペケペ節で有名な舞台俳優「川上音二郎」が自身の拠点として建設したもので、明治43年(1910)に完成、日本最初の洋風劇場として開場しました。
日本における新劇発祥の地とされ、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」やイプセンの「人民の敵」が演じられ、川上革新劇の全盛期となりました
しかし、興行的にはうまくいかず、音二郎は建設の翌年に亡くなりました。その葬儀は帝国座から天王寺の一心寺まで大名行列様式の野辺送りが行われたそうです。
建物は昭和40年代までありました。
山本能楽堂
山本家は京都で両替商「伊勢屋」を、明治末期には船場北久宝寺町で薬種商を営んでいました。
後に商売替えをし、謡曲を教え、能楽師になりました。
昭和2年(1927)、観世流能楽師山本博之氏が中央区徳井町に能舞台を創建しました。ここは船場の外ですが、能は紳士のたしなみと考える船場の旦那衆が頻繁に通い、その経営を支えました。
明治維新まではその役割は武士が担っており、豊臣秀吉も能を見るだけでなく自らも舞いました。
能楽堂は紳士の社交場・サロンとなり、能舞台を囲んで座卓が並び、ビールや料理を楽しみました。
1945年(昭和20)、大阪大空襲で焼失。1950年(昭和25)に再建されました。2006年、国の登録有形文化財に登録されました。
落語
船場(中央区久太郎町4丁目)に「坐摩神社」(いかすりじんじゃ、通称ざまじんじゃ)という古い神社
があります。
この境内に、平成23年(2011)、「上方落語寄席発祥の地」の顕彰記念碑が建てられました。
江戸寛政年間(1789~1801)、初代桂文治がここに大坂で初めて常設の寄席小屋を建て、興業を始めたということで、上方落語繁栄の基礎を築いたとされています。
なお、これとは別に、「上方落語の始祖」として米沢彦八の碑が生國魂神社の境内に建てられています。上方落語協会が1990年に建立したもので、その翌年から毎年「彦八まつり」を開催しています。
江戸時代中期、大道で床机だけを据えて「辻噺」が行われ、大道芸人らが技を競い合った中、米沢彦八が生國魂神社の境内で語った「当世仕方物真似」が大変人気を博したことに由来します。
上方落語の中には、当然のことかもしれませんが、船場を舞台にする演目が多く、これらに耳を傾けることは、船場の街風景や人間模様をうかがい知る有力な手段ともなります。
その主な演目と、登場するスポット、人物などを記しておきます。
鴻池の犬(鴻池家、平野町、順慶町、和泉町、南本町)
池田の猪買い(丼池筋、淀屋橋、大江橋、蜆橋、露天神社)
百年目(高麗橋詰め)
高津の冨(淀屋橋南大川町)
菊江仏壇(淀屋小路)
饅頭こわい(安堂寺橋、東横堀川本町の曲がり、農人橋)
雁風呂(淀屋辰五郎と水戸黄門)
4 美術
茶道具・美術品の谷松屋戸田商店
江戸時代から200年以上にわたり茶道具や美術品を商ってきた名門で、大名や豪商、明治の実業家を上得意としてきました。
出雲国松江藩藩主であり、大名茶人としても名高い松平不昧公の信任が厚く、不昧公命名の茶室「一玄庵」でも知られています。不昧公は参勤交代の折、わざわざ遠回りして大阪の戸田商店に寄るほどのひいきだったと言います。応接室には不昧公から贈られた直筆の掛け軸が今も飾られています。
料亭「吉兆」の主人で懐石料理の達人である故湯木貞一氏とも取引がありました。
明治以降は藤田財閥を興した藤田伝三郎のひいきもあり、藤田美術館に残る品にも戸田商店が扱ったものが少なくありません。
高麗橋吉兆・湯木美術館
料亭吉兆は、故湯木貞一氏(明治34年(1901)~平成9年(1997))が昭和5年(1930)に大阪市