2年半前、事務所をここ船場(伏見町3丁目)に移転して以来、この町が気に入り、いろいろ勉強してきました。その中で、船場が商人の町として発展し、それが大坂(大阪)を商業の町に仕立て上げ、ひいては日本の商業・経済の主役・中心地となっていった過程は大変興味を惹かれるところです。このあたりを私なりにご紹介したいと思います。
前回も書いたとおり、大坂は豊臣秀吉が築城した大坂城の城下町として発展してきました。上町台地の西側の湿地帯を埋め立て新しく船場の地を造成したうえ、インフラを整備し、堺など周辺の地域から商人を誘致するなどして、順調に商業の町として活性化していきました。
しかし、大坂冬の陣、夏の陣で大坂城は落ち、大坂の町はいったん灰燼に帰してしまいます。そしてその後は徳川の治めるところとなります。
江戸幕府もこの地の価値を高く評価していたため、これを直轄地(天領)としたうえ、大坂城を再建し、河川の改修や堀の掘削を行い、この町の発展を積極的に推進しました。大坂は古代からの地勢的有利性に加えて、インフラの整備が急速に充実しました。その結果とも言えるのですが、ここで大坂はもう一つ、以後の経済的発展に決定的に有利な条件を獲得します。それは、堂島川、土佐堀川の河岸に多数の(最多時は120余)「蔵屋敷」が設けられたことです(ここは船場ではありませんが)。
蔵屋敷とは、全国の大名諸藩が年貢米や特産物を売りさばくために設けた各藩の出先機関です。ここで換金した現金が国元に送金され、それがそれぞれの藩の財政を支えることになります。
物産の中心は米(蔵米)で、米の取引がその後戦略的に、また多面的に大坂の商業・経済の発展に寄与するのです。
米の取引は「米市場」において行われます。ここで、最初に紹介する大坂商人「淀屋」が登場します。ご存知の「淀屋橋」の名の始まりであり、現在橋の南詰少し西寄りに「淀屋の屋敷跡」の碑が建っています。
淀屋はもともと山城国の出身で、豊臣時代に初代常安が大坂に出て材木商を始めました。大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされています。その褒美として山城国八幡に土地をもらい、いくつかの利権を手に入れます。常安は中之島の開発にも尽力し、「常安町」や「常安橋」にその名を残しています。
二代目「个庵(こあん)」の寛永・正保(1624~1648頃)の頃、淀屋の店先で自然発生的に米取引が行われるようになりました。これが米市場の始まりで、「北浜の米市」と呼ばれてにぎわい、周辺には多くの米問屋が店を構え、また居住するようになりました。元禄10年頃、この米市場に参加する仲買人らの便宜のために米市場を対岸の堂島新地に移転することになり、このとき、淀屋が自費でここに橋を架けました。それが淀屋橋です。「堂島米市場」はその後長く継続、繁栄し、ここで決まる米相場は「旗振り通信」などの手段で直ちに江戸の幕府や市中に伝達されました。堂島米市場は実に昭和14年(1939)まで続きます。また、世界で初めての先物取引が行われたことでも有名です。
かつて米市場があった場所(ANAクラウンプラザホテル大阪南側)に「堂島米市場跡記念碑」が建っています。
淀屋は抜きんでて有力な蔵元(蔵屋敷の商品の売買を代行し、蔵物の出納その他の業務にあたった商人)として大きな利益を上げ、またその蓄財を「大名貸し」として財政難の諸藩へ融資することによってさらに莫大な利益を上げました。そして、淀屋二代によって日本一の豪商に成長しました。
四代目重当(しげまさ)のときは、今の「淀屋小路」を挟んで広さ1万坪の屋敷があったと言われ、建物は金を張り詰め、金のふすまを立て、夏はビードロ(ガラス)の障子をめぐらせ、天井にもガラスを張って金魚を泳がせたと文献に記されています。
ところが、五代目広当(ひろまさ)が新町遊郭に通い、吾妻太夫を身請けしたところ、その金の工面に私文書偽造などを犯したということがあり、それが咎められ、結局1705年淀屋は闕所(けっしょ)、つまり家財産の没収、所払いとなりました。
もっとも、この事件の真相は、淀屋から大金を借金していた大名たちの陰謀との説もあります。
船場はこの堂島米市場からわずか数百メートルの距離に位置します。堂島が全国の米取引の中心地となったことから、船場エリアにはそれに関わる多くの商人が活躍し、莫大な金銭が流通し、多様な関連業種と雇用を生み出しました。その代表的でメジャーな業種が「両替商」です。本来は江戸の貨幣の金貨等と大坂の貨幣銀貨等を文字通り両替する商いで、金目と銀目を交換する際の相場変動から出る差を利益としますが、米取引に関連して、前述の「蔵元」や「札差」といった蔵米の受取りや売りさばきの事務を請け負ってその手数料を得る業務、また、代金を預かる「掛屋」や各藩の財政に関わる「大名貸し」など融資業務も行いました。
両替商はそのほとんどが船場の今橋界隈に店を構え、その辺りは「長者町」と呼ばれました。「十人両替」が両替商仲間を統括していました。その中の1軒、ドラマ「あさが来た」のモデルになった「天王寺屋」(天王寺屋五兵衛)は大坂の両替商の草分け(1628年)です。「平野屋」(平野屋五兵衛)とは、同じ今橋1丁目、八百屋町筋を隔てて向かい合って屋敷があったところから、二人の「五兵衛」を文字って、「天五に平五 十兵衛横町」と刻した石碑が今もその角に建っています。
両替商は明治以降深刻な苦境に陥りました。明治政府による銀目廃止、藩債処分、御用金供出要求(その前は江戸幕府からも)などで軒並み支払い不能になりました。「あさが来た」にも描かれていますが、天王寺屋(あさの姉が嫁いでいた)を含め40軒の両替商が倒産・廃業しました。
残ったのは、最大手の鴻池、3都に本支店を持つ三井、銅山経営を背景とする住友、「あさ」こと広岡浅子の加島屋くらい。それらは後に銀行経営等に転換し、現在もその系統を保っています。
このうち、「鴻池」について。
今橋の鴻池本家の始祖となった鴻池善右衛門は親譲りの酒造業のほか海運業を起こし、これに成功、大きな利益をあげたため、明暦2年(1656)から両替商を始めました。
二代目が1674年今橋2丁目で家屋敷を購入して両替商を営み、昭和20年まで鴻池今橋本邸となっていました。現在は大阪美術倶楽部になっており、その玄関先に「旧鴻池家本宅跡」の碑が置かれています。
大坂今橋の豪商鴻池の名は天下に聞こえていました。「日本の富の7分は大坂にあり。大坂の富の8分は今橋にあり」とまで言われました。超大口の多額納税者、国債引受人でしたが、家風はきわめて質素倹約であったそうです。
明治10年、第十三国立銀行を設立、明治16年、大阪倉庫会社、明治22年、日本生命保険会社を設立。明治30年、第十三銀行は鴻池銀行と改組、昭和8年鴻池、三十四、山口の3行が合併して三和銀行が設立されました。その三和銀行本店建物は現在大規模な建て替え工事が行われています。南北は高麗橋通から伏見町通、東西は御堂筋から丼池筋までの間、ここに28階建てのビルが建ちます。日本生命の数棟のビルとともに、両替商から金融業に発展した船場の象徴のような存在になるでしょう。
鴻池家の三代目は宝永2年(1705)、旧大和川跡地に新田(鴻池新田ほか)を開墾し、ここで綿や菜種(油)などの栽培を始めました。これもそれまで財力を蓄えてきた結果ですが、ここでの産物が大坂の経済をさらに活性化させることになりました。
次に、同じく両替商の生き残り、住友について。
元和9年(1623)、二代目住友友以(とももち)が船場淡路町に移ってきました。それまで京都で銅の精錬と銅細工をしていましたが、大坂に進出して銅の貿易をやろうとし、両方でめきめきと成長しました。栃木県・足尾銅山、秋田県・花山銅山から良質の粗銅が海路大坂へと運ばれました。分家や別家は両替商に手を広げて大いに成功をおさめ、江戸にも進出しました。本家は銅の経営により重点を置いていました。元禄3年(1690)別紙銅山を発見、この経営の成功によって四代目友芳は住友中興の祖とされています。
長堀の川岸に「銅吹き所」(銅の精錬所)があり、今もその頃の施設の一部が保存されています。また、今橋通、今の愛殊幼稚園のあたりに銅を所管していた役所「銅座」があり、同幼稚園の玄関先に今「銅座跡」の碑が建っています。
加島屋について
前回「あさが来た」に関連して書いたので省略しますが、今の肥後橋付近に両替商「加島屋」の店がありました。現在の大同生命にその系統が引き継がれています。
中之島を中心とする諸藩の蔵屋敷には、年貢米のほか「蔵物」と呼ばれる多種多様な特産物が集められました。また、蔵屋敷を経由しない全国の物資も大坂を目指してやってくるようになりました。やがて大坂には、「堂島の米市場」に「天満青物市場」、「雑魚場魚市場」を加えて「大坂の三大市場」が誕生します。
船場の中にも、道修町の薬種商、本町の呉服商、伏見町の唐物商などが誕生します。
大坂から積み出した貨物は「下り物」と言われ、上物を意味し、大坂を経由しない地元産の品は「下らないもの」、安物と同義語となりました。今の「くだらない」の語源です。それほど大坂の問屋や仲買を通した品は厚い信用を得ていました。
そして、やがて大阪は「天下の台所」と称され、日本の経済の中心、主役として存在感を増して行くのです。
江戸時代以降、伝統と歓楽の町京都や政治と消費の町江戸とはまったく異質の発展を遂げ、国の興隆、繁栄の土台(下部構造)である産業・経済を力強く担ってきたこの大坂(大阪)、そして船場の町を誇らしく思います。