「船場」は、北は土佐堀川、東は東横堀川、南は(元)長堀川、西は(元)西横堀川で囲まれた地域のことを言います。つまり、四方を川で囲まれた町です。
船場の中も含めて江戸時代の大坂には自然の川に加えて人工的な川(運河・堀)が碁盤の目のように発達し、「水の都・大坂」と言われるようになりました。大阪湾を経由する「出船千艘、入船千艘」が行き交い、大坂の大発展が約束されたのでした。
そこに架けられる橋も、江戸時代の大坂には約200ありました。そのうち、天満橋、天神橋、難波橋は「難波の三大橋」と呼ばれ、いずれも公儀橋(公費で建設)です。
ところで、船場の外周及び内部はと言うと、古代より自然の川であったところは一つもありません。土佐堀川を含めて、全部人口の川、つまり「堀川」です(古くは「堀江」とも)。「運河」と言っても同じです。
1 土佐堀川
まず、その土佐堀川ですが、仁徳天皇のとき、上町大地(大阪湾の南から北へ突き出ていた半島)の中程を開削して、淀川などの流れを河内湾(後の河内湖)を経て西の大阪湾に効率よくはかせるようにした人工の川だったのです。「難波の堀江」と言い、のちに大川となりました。
大川と東横堀川の合流付近は、古代には「難波津(なにわつ)」、中世には「渡辺津(わたなべつ)」という歴史上重要な船着場がありました。江戸時代には「八軒家」とも呼ばれていました。
京都から淀川を下ってきた人たちが熊野街道に向かう起点になっていました。
2008年、京阪電鉄天満橋駅のすぐ北側の大川河川敷に「八軒家浜船着場」(浮き桟橋)が開港しました。
現在、天満橋南詰交差点から西へ約100mにある昆布処「永田屋」の店先に「八軒家船着場の跡」の石碑が建っています。
2 東横堀川
土佐堀川から分岐して南に流れるようになったのが東横堀川です。ここから船場の外周を時計回りに回っていきましょう。
東横堀川は、1585年に豊臣秀吉が築城した大坂城の外堀(西惣構堀)でした。堀川としては、(土佐堀川を除けば)大阪最古のものです。日本最大規模の水門(閘門)も設けられました。
東横堀川に高麗橋が架かっています。大阪城の外堀であったときに架けられました。
名前の由来は、朝鮮使節の客館「高麗館(こまのむろつみ)があったことによります。江戸時代、大坂には12の公儀橋がありましたが、その中でも重要な橋でした。西詰めに櫓屋敷(監視建物)があり、幕府の高札(こうさつ、たかふだ)が立てられました。現在橋の欄干につけられている飾灯は大正年間まで橋の東詰にあった一対の櫓屋敷を模したものです。
高麗橋は明治3年(1870)、大坂で最初の鉄橋に変わりました。また、西日本の道路の起点として里程元標が置かれました。東詰の高欄の右にその碑が立っています。
1929年(昭和4)、鉄筋コンクリート造のアーチ橋に架け替えられました。擬宝珠の飾りや櫓屋敷を模した高欄が設けられました。
元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替商などがこの辺りにありました。
本町橋も東横堀に架けられている橋です。1913年建設された大阪市内最古の現役橋です。大阪市文化財になっています。
末吉橋東横堀に架けられている橋です。江戸時代、東南アジアの海で活躍した豪商「末吉孫左衛門」によって設けられました。
この付近に、1636年、住友家が開設した当時国内最大規模の銅製錬所「住友灰吹所」があり、国内産出量の3分の1が生産されていました。今も記念碑的施設が残っています。
3 長堀川
「船場」の南辺を画し、島之内の間には長堀川が流れていました。1622年、伏見から移住した有力商人によって開削され、「伏見川」と呼ばれていた時期もあります。東横堀川の末吉橋から西に分流して木津川の伯楽橋にそそぐ、その長さ2.4km、巾は約40m。水都大坂の水運の要として機能し、諸国物産の集積地として利用されました。
これに最初に架けられたのが長堀橋で、これも江戸幕府が管理する公儀橋です。
長堀川の御堂筋と堺筋の中程に「三休橋」がありました。「三休橋」の語源は、船場と島之内を結ぶ長堀橋、中橋、心斎橋の3つの橋の通行量を減らす(休ませる)ことからだと言われています。
昭和35年(1960)、西横堀川から上流の埋め立てが開始され、昭和39年(1964)埋め立ては完了しました。西横堀川から下流は昭和42年(1967)から埋め立てが開始され、昭和46年(1971年)完了しました。
三休橋は1962年(昭和32)、長堀川の埋め立てに伴って撤去されました。
昭和48年(1973)、長堀グリーンプラザ(緑地帯)が設置されました。
心斎橋も長堀川に架かっていた橋です。岡田心斎が架橋しました。この界隈はかつては出版業のまちで、江戸時代のベストセラーの数々が出されました。
のちに長堀通に整備された歩道橋になりました。
4 西横堀川
長堀川と西横堀川と交わる地点には4つの橋が架けられ、それが「四ツ橋」。交差した地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称です。
それより西の沿岸は材木商が軒を並べて木材市として賑わっていました。
心斎橋と佐野屋橋との間には石屋が立ち並び、全国各地の名石が集積していました。名工たちの手で鳥居、橋、灯籠、手水鉢、道標、石仏、石臼などの商品が作られていました。
西横堀川の順慶町通に新町橋が架橋されていました。船場から西の新町橋を渡れば新町遊郭、南の心斎橋を渡れば芝居町の道頓堀に。花街と芝居街とを結び、大坂市中でも最も賑わった橋だったようです。
5 再び土佐堀川へ
西横堀川は南から北に延び、土佐堀川に合流します。
そのすぐ近くに肥後橋があり、その上流に淀屋橋があります。
淀屋橋は現在の大阪市民には最も魅力的で、多くの人が利用している橋だと言えます。
この橋は、江戸時代、豪商淀屋(2代目个庵)が私財を投じて架橋しました。
淀屋は現在の淀屋橋のすぐ南西に壮大な邸宅と巨大店舗を構え、その店先で米市場を開催していました。
5代目辰五郎の1705年、淀屋は闕所(けっしょ)に処せられ、全財産を幕府に没収されました。「町人の身分に過ぎたる振舞い」、1年半の間に1万貫(100億円)を浪費して遊興にふけったというのがその表向きの理由です。闕所の際の資産総額は今の価値で約100兆円。その大部分は大名貸し。闕所はその大名貸しの増大により大名が商人の実質的支配下に置かれることを避けたためとも言われます。
現在の淀屋橋と大江橋は1930年(昭和5年)からの御堂筋拡幅工事の過程で完成しました。
栴檀の木橋(せんだんのきばし)
淀屋橋の少し上流。南北の三休橋筋の北端で土佐堀川に架かる橋。この橋の南の袂に栴檀の木が立っていたからその名が。
江戸時代の初期に、豪商の蔵や屋敷が建ち並ぶ北浜と、諸般の蔵屋敷のある中之島との連絡のために架けられました。洪水などで何度か架け替えられており、現在のものは1985年(昭和60)竣工。南詰めの栴檀の木は、2013年の台風で倒れ、今あるのはその後大阪信用金庫が寄贈したものです。
この橋の名にちなんで三休橋筋を「栴檀木橋筋」とも言います。
難波橋は栴檀の木橋の少し上流にあります。
土佐堀川では最も古い橋で、奈良時代僧・行基が架けました。
明治18年(1885)の淀川大洪水でそのときの難波橋は流失し、架け替えられた橋は堺筋から一筋西の難波橋筋にありました。明治45年(1912)堺筋が拡張され、大正4年(1915)、市電がここを通るようになった際に現在の位置に移されました。
2回架け替えられたものの橋の意匠は継承されています。4隅にはライオン像があり、「ライオン橋」の愛称で親しまれています。