船場(伏見町)で法律事務所を営み、この町の歴史や雰囲気に強い親近感を抱いてきた私です。そのために勉強もし、散策、見学等も重ね、船場のボランティアの人たちとも親しくさせていただきました。それらを通じて学んだことを自分ひとりのものとせず、このホームページを通じて多くの人に紹介したく思い、この連載を執筆しています。
参考までに、今までに本ホームページに掲載した記事のタイトルを整理しておきます。
その1 NHK朝ドラ「マッサン」と船場
その2 NHK朝ドラ「あさが来た」と船場
その3 船場の誕生
その4 船場の商業と商人⑴
その5 船場の商業と商人⑵ 薬の街・道修町
その6 船場の商業と商人⑶ 繊維の街・船場
その7 船場の商人のアイデンティティ
その8 船場の教育・学問
その9 船場の文化・芸術・娯楽
今回は、船場にある神社・寺院・教会を紹介します。
1 大坂本願寺と寺内町
歴史上「船場」というエリアが成立した少し前の話から始めます。
昔、その後にできた大阪城のあたりに「石山本願寺」という寺院がありました。
その始まりは、1489年浄土真宗本願寺がこの地に移ってきたことからです。浄土真宗の第8代宗主で中興の祖と言われた「蓮如」がこの地に「大坂御坊」を建立し、これが1533年、「大坂本願寺」(石山本願寺)として、浄土真宗の本山寺院となりました。
大坂本願寺はその後次第に寺格が高まり、勢力も拡大、一大寺内町を形成するに至りました。8町(約900m)四方の土地を占有し、寺の周囲には堀が巡らされ、その廻りを門徒たちの住む6つの寺内町が囲み、さらにその寺内町を取り込む形で堀が巡らされていました。寺内町の人口は数万人だったと言われています。
余談ですが、「大坂」(おおざか)という地名が世にはじめて出た最古の文献は、この頃、1498年に蓮如上人が著述された「御文章(ごぶんしょう)」(全国の門弟宛に送られた手紙)の「大坂建立章」の中です。
当時やはり勢力を拡大しつつあった織田信長もこの地に着目していました。そのため、大坂本願寺に圧力をかけ、この地を信長に献上するよう要求しました。しかし、本願寺側はその要求を拒否、結果、1570年から1580年までのいわゆる「石山合戦」が戦われました。
1580年、大坂本願寺はついに織田信長に抗しきれず、この地を明け渡すことになり、宗主の顕如は紀伊国の鷺森に退去しました。顕如の息子、教如はその後も大坂本願寺に留まって抵抗しましたが、やはり大坂を退去しました。その際大坂本願寺に火を放ったため、二日一夜にわたり燃え続け、この地は灰燼に帰しました。
その2年後、本能寺の変により織田信長が死去、信長の意思を継いだ豊臣秀吉が大坂城を築城し、その城下町の建設を開始しました。
その過程で、大坂城の西、上町台地を西へ下った湿地帯を埋め立てて新しく土地を造成しました。そこが「船場」なのです。
「石山本願寺」の痕跡は現在まったく残っていません。その位置や範囲も明確ではありません。しかし、大坂(大阪)や船場の出発がここにあったことは間違いありません。
2 少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)と神農祭 中央区道修町
北船場、道修町通りに、「くすりの道修町資料館ビル」があり、その横の狭い参道の奥に「少彦名神社があります。建立されたのは1780年(安永9)。
道修町にはその前から薬種商が集まっており、中国の薬の神である神農氏を尊崇していましたが、あるとき、日本の薬神である「少彦名命」(すくなひこなのみこと)を京都五条天神宮から当地に招き、以後神農氏と合祀するようになりました。
1822年(文政5)、大坂でコレラが流行。道修町の薬種商らが虎の骨(漢方薬)などを混ぜて「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)という丸薬をつくり、病除祈願のお守りとして、笹についた「張り子の虎」と一緒に配りました。これが「神農祭」の始まりです。
以来毎年11月22日・23日、道修町をあげて賑やかにお祭りが営まれます。運営は明治時代にできた「薬祖講(やくそこう)」(今は約290社が加盟)が担っています。大阪市無形民俗文化財にもなっています。
大阪では、1月の「十日戎」が年最初の祭り、「神農祭」が最後の祭り(とめの祭)となっています。
「張り子の虎」は魔よけ、病除祈願のお守りとして今も人気があります。
少彦名神社の入口に、2004年、「春琴抄の碑」が建立されました。谷崎潤一郎の有名な小説「春琴抄」はこの町が舞台です。
また、道修町資料館では、薬の歴史のほか道修町の歴史に関する資料が多数保存、展示されています。
3 御霊神社(ごりょうじんじゃ) 中央区淡路町
前身は、現在の西区靱本町にあった「圓江(つぶらえ)神社」。八十嶋祭(天皇の即位儀礼)の祭場として創祀されたのが始まりです。
1594年、津和野藩主の亀井氏が寄進した現在地に遷座し、1661年頃「御霊神社」と改称しました。
淀屋橋・本町・中之島・土佐堀・江戸堀・京町堀・靱・西本町・江之子島南北堀江の西部等の旧摂津国津村郷の産土神(うぶすながみ)、浪速の氏神として尊崇を受けています。
「御霊(ごりょうさん」(船場商家の若奥さん御寮人(ごりょんさん)に通じる)と呼ばれて親しまれ、山形蟠桃、緒方洪庵、福沢諭吉、春琴抄の佐助なども参詣しました。
明治17年(1884)から大正15年(1926)まで、境内に人形浄瑠璃の常設小屋「御霊文楽座」が設けられ、文楽200年の歴史のうちでもっとも華やかな時代をつくりました。
船場商人の娯楽、社交や商談の場でもありました。
大正15年(1926)、文楽座から出火、本殿ともに火災で焼失しました。現在は「御霊文楽座跡」の碑が建っています。
6月20日~30日、夏の健康を祈って人々が「茅輪くぐり」に訪れます。
7月16日~17日、夏祭りが行われ、武者行列、獅子、靫太鼓の行列と奉納イベントが行われます。2011年、140年ぶりに伝統行事であり、武士の守り神であることに由来する「船渡御」が復活しました。
12月下旬、地域の企業が主催する「奉納餅つき」が行われます。
4 坐摩神社(いかすり神社) 中央区本町
正式呼称は「いかすり神社」と言います。「坐摩神(いかすりのかみ)」を祀っています。「いかすり」の語源は、土地や居住地を守るという意味の居所知(いかしり)が転じたものです。
珍しい「三ツ鳥居」となっており、本鳥居の両脇に小さな鳥居が付属しています。
創建は神功皇后が三韓征伐より帰還した際、淀川の河口に坐摩神を祀ったときとされており、その場所は中央区石町にある「坐摩神社御旅所」であるとされています。寛永年間に現在の久太郎町に移されました。
もとは渡辺津の守り神であり、その地にありましたが、1583年、大坂城築城の際その地域内となったため、替地を命じられ、2㎞離れた現在地に遷座しました。旧社地の石町には現在も行宮(御旅所)が鎮座されています。
江戸時代には門前市が形成されて大いに賑わい、上方落語の「古手買」や「壺算」などにも登場します。
当初は現在地付近を「渡辺村」と呼びましたが、1988年(昭和63)、地名変更でその名が消滅しそうになり、「中央区北久太郎町四丁目渡辺3号」として、番地の代わりに「渡辺」を残すことになりました。
境内に「上方落語発祥の碑」があります。上方と江戸の「桂派」落語家の祖、初代文治がここで寄席小屋を建てて興業したといいます。春と秋の年2回、初代文治をしのぶ落語会が開かれます。
6月30日、夏の健康を祈って人々が「茅輪くぐり」に訪れます。
7月21日~23日、夏祭りが行われ、ご神事太鼓が奉納され、ジャズコンサートが開かれます。
7月23日~26日、境内社の一つである「陶器神社」で瀬戸物市が開かれ、有名です。
2005年から、毎年10月に、「船場鎮守の杜(もり)・芸術祭」が開かれ、「船場deオペラ」やバレエのコンサートが行われることになっています。
5 北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院) 中央区本町
浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院。
前述のとおり、1496年、本願寺第8代宗主・蓮如上人が大坂・石山の地に御坊を建てましたが、石山合戦の後その地を退去しました。
1585年、豊臣秀吉から土地の寄進を受け、「楼の岸」(現在の八軒屋付近)に新坊舎を建てました。その敷地は現在の大阪天満宮の東側から造幣局があるところまでの広大なもので、秀吉自身もここを訪ねています。
1592年、本願寺が京都に移転した後、大坂の門徒たちによってこの場所に集会所を設けられました。これが本願寺津村別院の始まりです。
1597年、准如が宗主のとき、津村郷と呼ばれていた現在の地に「津村御坊」を建立し、ここに移転しました。これが今の北御堂で、伽藍の整備が完了したのは1605年です。
1655年には朝鮮使節団の宿泊所となり、朝鮮外交の一役を担うことがありました。
明治元年(1868)、地方官庁として大阪鎮台が置かれ、明治天皇の大阪行幸の際にはその行在所に当てられたこともあります。
現在の建物は、岸田日出刀の設計で、コンクリートの打ち放しの山門をくぐると、階段の先に宝形作(ほうぎょうづくり)の本堂がそそり立つ構造です。古代仏教寺院を現代風に解釈したような力強い造形。その後本堂改修工事が行われました。
6 南御堂(真宗大谷派難波別院) 中央区久太郎町
1595年、本願寺第12代宗主・教如上人(顕如の嫡子)が、豊臣秀吉から寺地を寄進され、大坂・渡辺の地に「大谷本願寺」を建立しました。1598年の大坂城の拡張に伴い、現在地に移転しました。これが現在の南御堂です。
境内には1596年鋳造の「大谷本願寺」銘の梵鐘(大阪市指定有形文化財)が残っています。これは商都大坂のシンボルにもなっていました。南北両御堂の門前には多くの門徒や商人らが集まり、「御堂さんの屋根が見える、鐘の音が聞こえる場所にのれんを張る」ことが、船場商人の憧れであり、誇りになっていました。
真宗大谷派は、1602年に徳川家康から京都烏丸六条に寺地を寄進され、その地に寺基を移しましたが、それまではここが教団の実質的な総本山でした。また、その後も、大坂における中心的な道場として重要な役割を果たしています。
1714年、幕府から大坂城の外堀の石垣の寄進を得て、大規模な地盛りをして二重屋根の本堂を完成させました。
現在の本堂は1961年(昭和36)、建築史家・太田博太郎の設計で、親鸞聖人の活躍した鎌倉時代の様式を念頭に建立されました。御堂会館は1階をピロティとして、ホールを上にかかえる構造です。
余談ですが、石山本願寺に始まり、北御堂、南御堂などによって啓蒙、醸成されてきた浄土真宗の仏教倫理が船場商人の商道徳の中にも深く横たわっていると言われています。
前述の、梵鐘の音に感慨を覚える商人の感性もその一つです。
また、伊藤忠商事、丸紅の創業者である伊藤忠忠兵衛も浄土真宗の熱心な信者(門徒)で、「たとえすべての事業・財産を失うことがあっても、他力安心の信心を失ってはならない」という遺言を残しています。
1694年、松尾芭蕉が大坂へやってきたものの、体調を崩してここの近くの花屋仁左衛門の貸座敷で客死したことはよく知られています。
南御堂の境内に有名な芭蕉の時世の句「旅に病んで夢は枯野をかけまわる」の句碑があり、また、近くの御堂筋緑地帯に「此附近芭蕉翁終焉ノ地」の石碑が建っています。毎年11月には芭蕉忌が開かれます。
なお、現在の大阪のメインストリート「御堂筋」ができたのは昭和になってからですが、その名は、北御堂と南御堂を繋ぐ道であったことに由来しています。
7 難波神社 中央区博労町
反正天皇が現在の大阪府松原市で父帝の仁徳天皇をご祭神として創建しました。その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大坂城を築城したのち、1583年、現在地に遷座しました。
昔から船場の商人たちが足繁くお参りしていた神社です。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の大阪空襲により全焼、昭和49年7月(1974年)に再建され、現在に至ります。
境内に樹齢400年の大きなクスノキがあります。
1811年、二世植村文楽軒がここで人形浄瑠璃の芝居「稲荷の芝居」を始めました。天保の改革(1841~1843)で宮芝居が禁止されましたが、1856年に3世文楽軒によって興業が復活しました。明治5年(1872)、小屋は九条・松島新地に移転しますが、そのすきに、明治17年(1884)、ここで「彦六座」が開場します。人気を集めたために文楽座は御霊神社に移って「御霊文楽座」として対抗しました。
ユネスコが認定する世界無形文化遺産「文楽」ゆかりの地として、「稲荷社文楽座跡」の石碑が設けられています。
毎年、7月20日~21日、氷室祭と奉納太鼓演奏などがあります。2012年には(博労稲荷神社の)神輿が復活しました。
8 日本基督教団浪花教会 中央区高麗橋
この教会は明治10年(1877)に設立されたプロテスタント教会。
創立者・澤山保羅(ぼうろ)は幕末の長州生まれ。アメリカに留学し、帰国後、外国人宣教師が船場で開いた診療所で通訳となり、聖書の講義もしていました。その翌年、「浪花公会」を設立、本人も牧師になりました。当初は今の場所より西寄りにありました。
明治11年(1878)には梅花学園(大阪府茨木市、当時は大阪市内)も設立しました。
現在の教会建物は、昭和5年(1930)、アメリカ人建築家ヴォーリスの設計指導のもとに竹中工務店が設計施工したものです。
レトロ建築が多く残る船場の一角に建ち、高い尖塔を持つゴシック様式の荘厳な外観と美しいステンドグラスが印象的です。
毎木曜に「正午礼拝」が、また月1回、「お昼のオルガンコンサート」が催されます。