炊きたてあつあつの飯をドンブリによそう。
ユッケのタレでヅケにしておいた鯛の切り身をのっけよう。
もっぺんタレをかけてタマゴの黄身を投下。
ネギや揉み海苔をちらす。ゴマをふりかける。
こういうものはすばやく一気に喰うほうがうまい。
スピード感で上品さなど吹っとばしてしまいなさい。
おかわりして今度はちがうネタでドンブリをつくってみよう。
マグロでいってみようか。
こういうときのマグロは赤身。
トロは脂が汁っ気をはじいてしまい味がしみ込まない。
2杯目もすばやくかっ込むようにして喰ってしまおう。
3杯目はホタテ、最後はサーモンでおかわりする。
この程度で食べすぎと思うのはあまい。
鯛ドンブリを八杯食べたあげくドンブリ鉢がコワいと言う者もいる。
そのような人物が落語の「まんじゅうこわい」にでてくる。
子どものころ父親から落語のカセットを借りて聞きながら寝ていた。
夕食後時間もたち空腹だった。
落語のなかの食べものはうまそうだった。
落語にでてくる鯛ドンブリは幼少の私に鮮烈な印象を残した。
なぜか私はこれを「鯛めし」という用語で認識するようになった。
まるごと炊いたほうの鯛飯など食べたことがないくらい子どもだった。
ユッケもまだ食べたことがなかった。
「鯛ユッケ丼」などという的確な表現は思いつくはずもなかった。
それくらい若かった。
今になって確かめると落語の鯛ドンブリはワサビ醤油で味つけしているようだ。
強烈な印象とか言っておきながらまちがってる。
それでも夜中たまらず布団を抜け出して鰻をチンして丼を食べたことは確かだ。
鰻をちょっと炙る知恵もないくらい若かった。
親にたのんで「鯛めし」をつくってもらうこともなかった。
「鯛めし」は私のなかで禁断の食べ物・第1位にランクインしてしまったのだ。
そのまま「鯛めし」は幻でありつづけながらも私の深層意識に居すわっていた。
20年ほど経ち私は弁護士になっていた。
青くさい若手だがいっちょまえに四国に出張したりするようになっていた。
道後温泉の「ふなや」に泊まる機会を得てよろこんだりしていた。
伊丹から飛びたつボンバルディア社製プロペラ機が墜落しないか心配だった。
ある日ある仮処分事件のため松山の地に降り立ち私は思った。
はらがへっては戦はできぬと。
てっとり早そうな食堂に入ったところそこで予期せぬ運命的出会いが生じた。
そこでは幻の「鯛めし」がメニューとして挙げられていたのだ。
これは幻の「鯛めし」ではないか。
大阪の与太呂みたいにまるごと炊いた鯛飯だけではないのだ。
もちろん私は「鯛めし」を注文して食べた。うまかった。
帰り途に空港へ向かうタクシーで運転手に「鯛めし」のことを尋ねた。
(私)松山で鯛めしといえばこのような食べ物をいうのか?
(運転手)それはちがう。ところでセンザンキ食べた?
要約するとそのようなやりとりであった。
その後の追跡調査により次のようなことがわかった。
私が入った空港近くの食堂は一六タルトの系列の店であること。
鯛ユッケ丼的「鯛めし」はとくに松山名物ではないこと。
宇和島など南予地方では鯛ユッケ丼的料理を指して「鯛めし」と称すること。
ともかく脳内の産物でイリュージョンであった「鯛めし」が現実となった。
松山で食べた「鯛めし」の記憶を反芻したところ次のような認識にいたった。
それは鯛のユッケ丼とでもいうべき食べ物である。
どうやら料理ができない私にもつくることができそうである。
(注)このころにはしょっしゅう焼肉屋でユッケを食べるようになっていた。
20年の時を経て私はユッケのタレがスーパーで購入可能なことを知っている。
そして鯛以外の魚介によるデリバティブ商品まで編み出すようになった。