2007年11月01日

私は最近、「堂島の歴史―堂島界隈歴史散歩」という、A4版60ページの冊子を執筆しました。堂島・中之島・梅田界隈の歴史や現在散策できる歴史スポットについて書いたものです。
私が所属する大阪堂島ロータリークラブが創立20周年の記念事業の一つとして作成したもので、約1万部が印刷され、北区の公共団体、事業所、学校などに配布されました。
私は歴史学者でも郷土研究家でもありませんが、堂島に活動の本拠を置く大阪堂島ロータリークラブの会員になって以来、この町の歴史に興味をもつようになり、いろいろ勉強したり、歩いたり、写真を撮ったりしてきました。それをこのような形でまとめることができ、個人的にも大変うれしく思っているところです。

堂島(大阪市北区)界隈と言えば、江戸時代初期に「堂島米市」が開設されたことが契機となって、以後大阪(大坂)の商業、経済の中心として大いに発展したところです。
その過程で展開されたエネルギッシュでかつロマンにあふれたな人間模様もまたかぎりなく興味をそそります。
すでに冊子を読まれた方には重複となりますが、ここにあらためて、堂島・中之島・梅田界隈の歴史の概略を紹介し、仕事やショッピングでこの界隈を歩かれる人たちの参考に供したいと思います。

まず「堂島」の誕生ですが、その名のとおり元々は大阪湾に浮かぶ小さな島でした。さらにその前は影も形もない大阪湾内の海底でした。陸地となって海上に現れたのはおそらく飛鳥時代だと思われます。縄文時代から数千年にわたって、淀川、大和川などが運んできた大量の土砂が大阪湾内に堆積した結果です。
堂島が出現したのと同じ頃、大阪湾内には中之島、福島など、ほかにもいくつもの陸地が顔を出すようになっていました。はじめは「洲(す)」といい、成長して「島」になりました。今の天神橋あたりから西の大阪はその全体が淀川尻の砂州として形成されてきたものです。
堂島に今も「堂島薬師堂」がありますが、これの初代のお堂はその頃、つまり今から約1400年前、誕生まもない堂島に創建されたものと思われます。「堂島」の名も「お堂がある島」から付いたという説が有力です。
堂島薬師堂では、現在毎年2月に「節分お水汲み祭り」という行事が行われ、北新地あげてのイベントになっています。

平安時代になると、大阪湾内には「難波八十島(なにわやそじま)」といわれるくらい多くの島々が誕生します。その間を多くの船が往来し、航海の安全のために海中に設置された標識が「みおつくし」であり、その形が後に大阪市の市章になりました。
八十島の周辺はさらに土砂の堆積が進み、次第に海が浅く、陸地が多くなりました。陸と陸との間隔が狭くなってくると、やがてそこは海ではなく、淀川の延長として川になってきます。
毛馬から桜宮を抜け、市中を南下してきた大川(旧淀川)が大阪城の西側、天満橋付近で流れを西に変え、やがて南側を流れる「土佐堀川」と北側の「堂島川」に分かれ、約3km下流の「安治川」で再び合流します。
今はありませんが、この堂島川から、今のセキスイのビル(堂島関電ビル)あたりで北に分流し、西にカーブしながら福島区で再び堂島川に合流する「蜆川(しじみがわ)」がありました。

堂島に本格的に人が住み、町が形成されるようになったのは江戸元禄時代です。
まず、幕府の命によって堂島川が浚渫され、「堂島新地」が誕生しました。新しい町はたいていまず遊興の場所として発展しますが、堂島もそのような場所として次第に賑わいを見せるようになります。
しかし、堂島は単に遊興の町にはとどまりませんでした。ここに「米市場」が開かれたことが堂島の歴史を語るとき決定的に重要です。
「堂島米市」がこの堂島を全国版有名スポットにし、ひいては大阪の発展の礎を築きました。堂島新地には米の仲買商の店舗が軒を連ねるようになり、その屋上では「旗振り通信」というおもしろい光景が見られました。
堂島における米取引は実に1939年(昭和14年)まで数百年にわたって存続しました。
やがて堂島新地から蜆川を越えた北側のエリアも開発され、むしろ歓楽街はこちらの方で栄えました。これが「曽根崎新地」であり、今では、堂島新地・曽根崎新地を合わせて「北新地(きたのしんち)」と呼びます。
堂島新地、曽根崎新地が遊興地であり、欲望と癒しが錯綜しているところであったことから、この付近を舞台とする艶話やそれにまつわる事件も絶えませんでした。
近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」や「心中天の網島」(いずれも実話にもとづく作品)の舞台もここ堂島新地、曽根崎新地でした。「曽根崎心中」のお初・徳兵衛や「心中天の網島」の小春・治兵衛は両新地の間を流れる蜆川の堤を踏みしめながら、心中の道行きを進めたのでした。

江戸時代、大阪は「天下の台所」といわれました。これは、全国諸藩からの物資の唯一最大の集散地であったことと、そこから商業・金融業が全国のどこよりも早く発展したためですが、そのなかでももっとも先進的、中心的な役割を果たしたのが堂島界隈なのです。
諸国から大阪に集結した米の取引や流通のために、堂島・中之島周辺には多くの(ピーク時は約130箇所)「蔵屋敷」が設けられました。
その蔵屋敷の一つ、元の阪大付属病院の場所にあった九州中津藩の蔵屋敷では、かの福沢諭吉が生まれ、北浜の適塾で薫陶を受けました。
蔵屋敷は明治維新の廃藩置県によって全部没収され、現在その建物を見ることはできません。かろうじて、もと筑前黒田藩の蔵屋敷の長屋門が、現在の天王寺美術館の南門として名残をとどめているだけです。

明治維新は大阪、とりわけ堂島界隈には苦しい試練となりました。堂島・中之島に集中していた蔵屋敷はすべて取り壊され、大阪の貨幣であった銀目も廃止され、大阪は没落の危機に瀕しました。
しかし、五代友厚の活躍などにより、見事に復活。繊維工業(東洋紡績など)をはじめとする近代的産業が再びここ堂島で勃興し、堂島界隈は再び活気を取り戻していきます。
日本最初のビール工場(渋谷ビール製造所)も堂島にありました。大阪商工会議所の前身も1968年(昭和43年)まで堂島にありました。
毎日新聞社が1922年(大正11年)から1992年(平成4年)まで堂島にありましたし、朝日新聞社も1885年(明治18年)以降現在に至るまで中之島にあります。
大阪市庁舎の第二代建物も1912年(明治45年)から1921年(大正10年)まで堂島にありました。

堂島界隈はその後も数度にわたる大きな災害に見舞われています。1885年(明治18年)の「淀川大洪水」、1909年(明治42年)の「北の大火」、それに1945年(昭和20年)の「大阪大空襲」などです。
蜆川は北の大火のとき、その瓦礫で東半分が埋められ、西半分も数年後に消滅しました。今ではここに川があったことも、「桜橋」がこの蜆川に架けられていた橋であったこともほとんど忘れられています。
しかし、最近なぜか、また蜆川に対するノスタルジアを耳にすることがあります。新地本通りに設置された説明パネルのPR効果もあるのでしょう。

天下の台所、大阪の主役であったまち、情緒とロマンにあふれたまち、癒しのまち。平素は何げなく眺め、ほろ酔い機嫌で歩いている堂島・中之島・梅田界隈を、ときにはその歴史を思い出しながら、往年を忍んでみるのもまた一興ではないでしょうか。

なお、冊子「堂島の歴史―堂島界隈歴史散歩」に興味のある方はその旨メールでお知らせ下されば、私の手もとにある残部の中から進呈させていただきます。無償です。