2009年06月01日

この言葉は、心理学者の河合隼雄氏が、法則というものは、一面的だったりしてあまり好きではないが、と言いつつ、割と気に入っている法則として紹介しているものです(心の処方箋 新潮社文庫)。
河合隼雄氏は、残念ながらおととし亡くなられ、民間出身の文化庁長官としても著名ですが、それよりも箱庭療法など日本文化に根ざし、日本人のメンタリティにマッチした心理療法を定着させた心理学者として有名で、多数の優れたエッセイを残しておられます。

この「ふたつよいことさてないものよ」という言葉は、どんな物事もよい側面と悪い側面があり、何もかもよいということはどんなにのぞんでもなかなかないものだなあ、というあきらめを込めた嘆きを意味する言葉であると思います。

最近、私も、日々の暮らしの中で、この言葉が頭に浮かぶシーンが増えています。

例えば・・・

最近、あまりにも楽に流れすぎてヒールのないいわゆるベた靴ばかり履いていることを反省して、久々にかかとの高い靴(とはいっても5.5㎝ですが)を買いました。
国内ブランドということもありそれほど高価ではなく、それほどためらいなく買うことができました。
このような買い方は貧乏だった学生時代にはとても考えられなかったことです。
昔に比べて今は恵まれているなあ、とちょっとうれしくなりました。
しかし、よいことばかりではありません。
学生時代は自分自身にかける時間がたっぷりありました。何よりも今よりかなりスリムな体型でもありました。
今は仕事をして、買い物して、と一日のスケジュールを考えると、新しい靴をゆっくり履き慣らす機会もなかなかありません。
結局エイやっとばかりに気合いを入れて今日履いてきているのですが、時の経過はある意味私にやさしく、ある意味厳しいです。
なんでも良いことばかりというわけにはいかないなあ、とため息です。

独身の友人達の暮らしぶりを目にするにつけてもこの言葉をよく思い浮かべます。
友人達の暮らしぶりを見ると、大好きな俳優さんを見るためにお芝居を見に何度も東京方面まで足をのばしたり、弁護士業務の傍ら大学に行って学び直したり、あるいは、一目惚れしたピアノを買ってそれが似合う新居を探して引っ越したり、忙しい仕事の合間を縫ってそれぞれ自由闊達に日々の暮らしを楽しんでいる様子。
私はといえば、仕事の忙しさは友人達と同様ながら、その後の時間は、子供達との時間を確保すること、家族の喜ぶご飯をつくることなどなどに汲々として、友人達のように「純粋に自分自身のためだけの」思い切った行動は今のところとれていません。
仕事も家庭もどちらも私にとってかけがえのない大切なものであり、今の私には子供達のいない人生など考えられません。しかも、子育てに理解のある職場にも恵まれているのです。
とはいえ、友人が友達同士で海外旅行に行くことが急に決まったという話をしてくれたとき、思わず、「その人独身?・・・いいなあ!」と言ってしまう自分もいるのです。
そんなときこの言葉が胸をよぎります。

しかし、この言葉はため息をつくときばかりに効力を発揮しないのです。さすがに奥が深いのです。
これも河合隼雄氏の受け売りなのですが、仕事で大変なとき、プライベートでいやなことがあったとき、どんなときにでも、いやいやこのことは別の良い面があるのでは、と考え直して気を取り直すことができるのです。

例えば、仕事のことでいうと、うちの事務所の所長である梅本弁護士はいわゆる雷親父タイプです。
プライベートでは父親のように面倒見がよく優しいのですが、仕事に関してはかなり厳しいです(最近はずいぶんやさしくなったと言われていますが。)。
口調も厳しいですし、声にも迫力がある。そしてなによりも、まあいいか、と流すことはしません。
裁判所に出す書面や事件の方針を立てる際にも、まずは梅本弁護士の納得を得なくてはなりません。
意見が違う場合には説得し論破しなければならないのです。
今では私の意見がそのまま通ることが多いのですが、それでもいつ厳しいつっこみが入るかもしれず、常に理論武装していなければなりません。
結論は、絶対にこうだ、という自信があっても、それをいつでも論理的に説明できなければならないのです。
正直言って仕事が立て込んでいるときなどなかなか大変だなあ、と思うときもありました。
しかし、身内の梅本弁護士を説得できないのに、クライアントの方々や裁判所、相手方を説得することはできない、ということに気づきました。相手の迫力に負けていては駄目だ、ということにも気づきました。
また、論理的に考える力(体力ならぬ脳力とでもいうのでしょうか)がいつの間にか少しずつついていることに気づきました。
このような経験から、仕事上、厳しい局面に立つ場面は、むしろこれは自分を鍛えるよい機会でもあるのだ、と考えるようになりました。
「ふたつよいことさてないものよ」を別の見方をすれば「すべてわるいこともまあないものよ」です(ごろは悪いですが)。

今のところ、公私ともにそれほど大きな心配ごとはないのですが、生きている限り、きっとこれからもいろいろなことがあるでしょう。
しかし、何かあってもこの精神で乗り越えて行きたいなあと思っています。