2005年12月01日

先日、法曹を志そうかと考えている高校生と話をする機会があった。
こういうとき、決まって聞かれるのは弁護士を志した理由である。私はいつも「手に職を付けたかったから」と答えるようにしているが、それだけではイマイチピンと来ない。
一般によくあるのは「人の役に立つ仕事がしたかった」という動機だが、仕事というのは、そもそも人の役に立つことをしようとすることだから、あまり内容がないように思える。自分自身が何か困難な事態に直面した経験があって、その理不尽に立ち向かうためということもないし、法廷ドラマの主人公に憧れた訳でもない。
「どうして?」と言われると、ズバッと明確には答えられないが、その高校生の某君にしゃべった内容を少しふくらませて整理してみた。

私が高校生の時、弁護士になろうなどと考えたことははっきり言ってゼロである。当時は理系の大学に進み、何か科学の分野で仕事ができればなあと考えていた。
ところが、部活やら文化祭やらソウルオリンピックやらで真剣に勉強しなかったこともあって、受験した大学全てが不合格となり、浪人が決まった段階で、文系に進もうと方向転換した。もともと文系の科目の方が相対的には成績が良かったのに、無理して理系に進む必要もないか、とかなり安易な選択であったが、思えば、この時、弁護士になるまでの歯車が回り出した。

浪人中も文学部に行こうかなどとぼんやり考えていたが、その年、平成元年(1989年)は、天安門事件や東西ドイツの統一など世界史に残る大きな事件があった年である。そんななか、世の中の仕組みが勉強したいと考え、そんなことを勉強するのは法学部と単純に思い、それで法学部に入った。大学の先輩でもある叔父(法曹界の人ではない)に「将来は弁護士か。」と聞かれたが、このときも「試験勉強ばかりだと視野が狭くなりそうで、いやです。」と、無知にも、答えていたのを覚えている。

次のステップは大学の法律相談部に入ったことだ。これも友人に誘われて入っただけで、法曹になりたくて入った訳では全くない。
法律相談部は一般市民に来て頂いて、学生が無料で相談を受けるというのが主な活動である。このサークルの良い点は、何らか法的なトラブルに直面して悩んでいる人に直に接することができて、勉強したことに基づいてアドバイスらしきことができるということである。
そこで学んだのは、法律は現実の生活の中で生きているし、トラブル解決のための基準として機能しているということだ。
また法曹を目指す先輩や同級生もたくさんいたので、触発されたし、弁護士になった先輩方がオブザーバーとして指導しにしょっちゅう来られ、時には仕事のことなど話されたので、弁護士のイメージを具体的に持つことができた。

ゼミの存在も大きかった。私は当時新進気鋭だった民法の潮見佳男教授(当時は助教授)のゼミに3回生から参加させて頂いた。先生は学問には厳しく、単位を簡単には下さらないという意味で、一部では「撃墜王」の異名をとっておられたが、さして優秀でもない私などは厳しい先生に教えて頂いた方がいいだろう、と考えてこのゼミに入った。
このゼミでは、毎回、先生から事前に提示された事例問題について、担当者3人程度がグループとなって、問題点を分析し、判例、学説を調べ、それに基づいて回答をまとめ、発表するのである。ちなみに、私が今仕事で事案の問題点を検討する際の手順はこのゼミの準備とほとんど同じである。
担当者の発表には、学生や先生からツッコミが入る。潮見先生は学生が「利益衡量」や「取引の安全」など抽象的であいまいな理由で簡単に結論を出されることを厳しく戒められていた。このとき、きちんと手順を踏んで理屈を考え、結論を導くことの大切さを叩き込まれた。
なお、潮見先生は学問には厳しいが、学生、特にゼミ生には優しく、先日も同窓会にご参加くださっていた。

このような過程で司法試験にチャレンジして、弁護士として仕事をする意識を次第に固め、所定の(?)受験勉強を4年間ほどやって、司法試験に合格した。
受験勉強について特筆すべきことはないが、最終合格直前は、自分は弁護士の仕事の準備をしているという意識を常に持ち、論文問題にも答えていた。論文問題の回答はともすれば、A説はどうで、B説はこうで…ととりとめのないものになりがちだが、要は直面する問題に的確に時間内で回答を出すことが大事と考え取り組んだ。そういうわけでこの頃は既に法律家の気分で勉強していたし、そのときの文章の訓練が今に直結している。

その後、司法修習生を経て、弁護士登録したが、弁護士になってからは、当たり前だが現実の問題を扱い、人間相手の仕事なので、そういった点で難しい。
しかし、「理論と現実は違う」などと安直には思わないで、基礎理論に則ってモノを考え、判例など必要な情報をインプットし、その上で、社会における人の行動様式、心理の動きをよくよく考えて、仕事をすることを心がけている。
そういえば、こじつけかもしれないが、子供の時から「正しいことは正しい」とか、「分からないことは分からない」とかを言いたいという欲求は強いほうだったように思う。
そういうわけで、弁護士に要求される技術、態度を追求する過程自体が、何となく自分の性にあっているのではないかと思う今日この頃であり、逆に、そう思えるだろうと考えたことが弁護士を志した理由のように思える。