私は、高校生くらいのときからクラシック音楽が好きでした。その頃、今も続いているNHKの「音楽の泉」などを欠かさず聴いたものです。
最初に感動でブルッと震えたのはモーツァルトの「アイネクライネ」でしたが、その後はベートーヴェン派でした。
構成の論理性、堅牢性、人間の内面を鋭く、真剣にえぐるような響き、それが私の青春時代の感性、情感と一致したのだと思います。
しかし、自分が深刻ぶれるのは実は聞く側の生活心情に余裕があるときで(そのようなときはモーツァルトの音楽は頼りなく感じられます。)、本当につらいことに身を置く経験を重ねると、ベートーヴェンの音楽に自分を同調させのはつらく、しんどくなってきます。
それに、おそらく40歳を過ぎた頃、人生何事もあれもこれもではなく、絞り込むことが大事、と悟る時期があり、その頃から私は、ベートーヴェンからモーツァルト派に鞍替えし、以後はもっぱらモーツァルトに自分の感性を集中、同調させることにしました。
モーツァルトの音楽は美しいメロディに加えて、明るく、快活、屈託が無く、天衣無縫、おしゃれ、などの特徴があります。モーツァルトは音楽で人生の暗さを表現しようなどとはしなかった、深刻ぶって音楽を作るということもしなかったように思います。
自身晩年は(と言っても30歳以降ですが)結構不遇な状況にあったにもかかわらず、ピアノ協奏曲23番の第2楽章のような「天上の音楽」を作ることができました。
もっとも、モーツァルトの音楽に「悲しさ」がなかったと言えば、そうではありません。短調の曲も多くはありませんが、あります。有名なところでは、交響曲25番、40番(いずれもト短調)、ピアノ協奏曲20番など。
交響曲40番の冒頭のフレーズをかつて小林秀雄は「悲しさが疾走する」と表現しました。
また、映画「アマデウス」の冒頭では、交響曲25番の暗く、心をしめつけるような短調のフレーズが、モーツァルトの悲劇的最後を予告するように奏でられます。
しかし、多くの場合、モーツァルトの曲からしみ出てくる「悲しみ」はベートーヴェンやブラームスのように重々しくはありません。悲しみのなかにさわやかさがあり、切なさのうちにもすぐに涙をぬぐえるような、そして清い心に立ち返れるような、そういう悲しみです。
モーツァルトの明るさが最大の魅力とは言いながら、実は、モーツァルトのこのような悲しみも捨てがたいのです。
短調の曲だけでなく、長調の曲でも、頻繁に出てくる短調への転調部分などでドキッとするほど切ない瞬間があります。さらに言うなら、長調の曲、長調のメロディそのものの中にも、モーツァルト独特の悲しみが潜んでいるように感じます。
それなのに、モーツァルトの曲はどの曲も、全体として、明るく、美しく、さわやかな音楽であって、これがモーツァルトの音楽なのです。
私くらいの歳になり、人生の重苦しいところはもうたくさん、という心境にある者にとっては、モーツァルトの音楽こそ、何よりの癒しであり、愛すべき人生の伴侶です。
1991年、モーツァルト没後200年のモーツァルト・イヤーに、モーツァルトの故郷ザルツブルクとウィーンを訪ねて、モーツァルトをしんみり偲んでから、はや十数年たちました。
執筆者:弁護士 梅本 弘
2004年10月01日