2006年11月01日

大阪では、夏の風物詩である天神祭りで有名な天満宮に、社団法人上方落語協会により大阪天満繁盛亭が開設されて、ちょっとした落語ブームになっている。私は、今建替え中のサンケイホールで上演された米朝一門会に何回か行ったことがある程度だったが、昨年くらいから落語がマイブームとなっている。今年は天満繁盛亭やワッハ上方ホールを含めて数回落語を聞きに行っているが、主としては米朝師匠のCDを車の中やお風呂の中で聞いている。上方落語は長屋の住人の生活を題材にした滑稽話が多いように思うが、中には商売を題材としたものもあり、商いの心得というようなものを説いたものもある。そこで語られるなにわの商人はテレビでステレオタイプ的に語られるケチでズルイというものとは少し異なる。世の中には落語ファンも多いし、私より造詣が深い人はごまんといるが、僭越ながら、私が聞いた中で大坂商人をうまく表現している落語を紹介してみたいと思う。

まずは「はてなの茶碗」である。江戸時代に京都の清水寺の茶店で、名代の茶道具屋を営む金兵衛が、一休みしてお茶を飲んだ後、自分が使った安茶碗を眺めて「はてな」と呟いて安茶碗を返して帰っていった。それを見た行商の油屋が、掘り出し物に違いないと思って、茶店の主を脅したりすかしたりして、全財産の2両をはたいてその安茶碗を買って、茶道具屋の金兵衛の店に行って鑑定してもらう。ところが、金兵衛は傷もないのに茶が漏れるのが不思議なので「はてな」と言っただけで価値のない安茶碗であることがわかり油屋はがっかりするが、ここで油屋が大坂の出身であることがわかり、金兵衛は、商いはやっぱり大坂だと感心するのである。それは、京都で有名な金兵衛が「はてな」と言ったというだけの情報、思惑で全財産をはたくような思いっきりのいい投資ができるのは大坂商人だけだというのである。現在の大阪で、そのような思いっきりのいい商売ができているのかと思ってしまう話である。なお、以上はこの噺の前半部分であり、後半部分では、この安茶碗がどんどん出世していって油屋にも幸運をもたらすという小気味のいいハッピーな話である。

次に、強気な大坂商人が登場する話として「住吉駕籠」がある。これも、江戸時代に住吉大社に行く街道で商売している駕籠屋とそれに行きかう人が関わる話で、堂島の米相場師が最後に登場する。当時、米の値段は大坂で決まり、情報をいち早く伝えるために大坂から江戸まで狼煙台まであった。まさしく堂島の米相場は日本の投資、投機の中心であった。この米相場師二人が駕籠屋を騙して一つの駕籠に乗ったところ、二人分の体重で駕籠の床が抜けてしまった。そこで、駕籠屋が降りてくれというと、この米相場師は、自分たちは強気で有名な相場師であり、一度はった相場は途中で降りない、一度乗ったものを途中で降りるというような縁起の悪いことを言うなと怒るのである。子供っぽいこだわりが面白いが、現代の投資家にも同じような縁起担ぎの人がいるのではないかと思う。ところで、床の抜けた駕籠を降りずにどうやって目的地まで行ったかは、この噺の落ちにつながるもので、「雲助」という言葉の由来を説明する枕と一体をなす秀逸なものである。

それから、米朝師匠の大ネタ「百年目」である。クソ真面目で目下の者に対しては権柄づくの番頭が実は芸者遊びが好きで、偶然にそれを知ったこの店の主人(旦那)が上に立つものの心得を諄々とこの番頭に諭すのである。旦那は、番頭がそのような遊びをしていることを全く責めずに、仏教説話の旦那という言葉の由来から目下の者を労わることの重要性を諭すのであり、まさに上司の鑑である。その中で、旦那は、商売仲間と遊ぶときは遣い負けをしてはいけない、そうすると商いの矛先が鈍るからと、遊ぶときはきれいに金を遣うことが必要であると教える。そうすることにより、商売のときは遠慮なく儲けに邁進できるというのであり、お手本にしたいような考え方である。この噺は、テンポもよく筋もスムーズだし、米朝師匠を人間国宝にした芸として、大のお薦めである。

最後は、「千両みかん」である。これは、大坂商人の真骨頂ともいうべき噺である。ある若旦那が、真夏にみかんを食べたいという気患いで瀕死の重病(うつ病のようなものであろうが、このあたりは落語である)にかかり、番頭がみかんを探しに行くと天満の果物問屋に1個だけがあることがわかった。この果物問屋では、みかんを買いたいという客がいつ来てもいいように、殆ど腐るのを承知で、毎年、大量のみかんを蔵の中に保管している。その保管していたみかんのうち1個だけが食べられる状態で残っていたというのである。番頭がわけを話すと、その果物問屋は、それなら無料であげるという。しかし、番頭は、ちゃんとお金を出して買いたいので値段を言ってくれというと、果物問屋はそれならば千両であるという。あまりの高額に驚いて文句をいう番頭に、果物問屋は、コストはそれに見合うだけがかかっていることを説明した上で、困っている人に無料であげることはできるが、商売だというのであれば1文の損もするわけにはいかないと言うのである。商売とボランティアを截然と区別したいい噺だと思う。ただ、この噺は、教訓としてはいいが、中身は大笑いするというストーリーとはいいがたいものである。

以上、4つの噺を紹介したが、落語としておもしろいのは「住吉駕籠」と「百年目」じゃないかと、私個人の感想としては思っている。秋の夜長に商売の心得の勉強をかねていかがでしょうか。