2007年08月01日

とある団体(今年入会した大阪青年会議所ですが)のセミナーで、ディベートに参加しました。
ディベートというのは、とあるテーマについて賛成と反対の二つの立場に分れて議論し、どちらがより説得的であったかを競う、一種のゲームのようなものです。本心が賛成なのか反対なのかは関係ありません。攻守交代ということもあり得ます。だからディベートはあくまで建設的な議論をするための訓練です。

そのときのテーマが「これからの企業経営は利益よりも公益性を優先すべきである。」というものでした。賛成チームと反対チームのそれぞれ5人ずつに分かれて、対決しました。私もその一員として張り切って、参加しました。周りの皆さんも「あいつは弁護士や」と知っています。ここで負けてはいけません。ちなみに青年会議所は若い経済人の集まりですから、弁護士はごく一部です(弁護士の増加に伴いその割合は増えつつありますが)。
最初は肩に力が入っていましたが、そのうち乗ってきました。なぜなら、普段の仕事では、論理的であることが常に要求されていますが、知らず知らずのうちにその能力は身についており(詳しくは2006年12月1日の弁護士エッセイ・拙稿「口下手は論理的思考で克服できる」をお読みください)、その訓練の成果が発揮できるのです。一般の読者は「そらそうやろ」と思われるかもしれませんが、議論・論理というのはとても難しいものです。
私は、確か「公益性を優先すべきである」との立場から、ああいえばこういう、こういえばああいう、でいくらでも反論できる気がしました。相手の論拠は結局何なのか、しかし、その論拠はこの点を付けば崩れる。他方、自分の立場の論拠として具体例をあげて、そこから結局何が言えるのかなどなど。ここでまた一般の読者は「素人相手に何張り切ってねん」と思われるでしょうが、正直に言えば私は気分がよかったのです。
私の同チームのみなさんも活躍されました。ちなみにこの方たちは若き経営者です。日頃の経営理念、実際の経験から、とても分かりやすい論旨で話をされました。このことは後で触れます。

このディベートの勝ち負けは5人の判定員の挙手によって多数決で決まるというルールでした。私は公益性優先チームの完勝だと思っていました。
ところが、あにはからんや1人は公益性優先否定チームに手を挙げたのです。私はチームの皆さんと勝利を喜びながら「おいおい、なんでやねん…」と心の中で思っていました。
しかし、人のよい私はまた考え出しました。「何があかんかったんやろ。」と。そこで思い至ったのは、人は単に言葉の論理展開のみで動かされるわけではないということです。普段の仕事を振り返っても、そう思うことがあります。

もちろん論理的であることは大前提です。しかし、それが単なる言葉の遊びであっては人の考え、気持を変えることはできません。その論理の裏に自分自身の強い意思、思いがなければ、なかなか相手には伝わらないし、まして説得などできません。
弁護士の仕事の中では相手方を説得しなければならない場面もありますし、訴訟では裁判官を説得しなければなりません。依頼者からの法律相談に応じるときも、自分の確かな考えをもち、依頼者の指針になるようなアドバイスを説得的に述べなければならす、それは全人格が問われるような作業です。先輩弁護士が顧問先の相談に乗るのを同席して観察していると、経験に裏打ちされているせいもあるでしょうが、依頼者が深く頷いて本当に納得していることが見て取れます。それがたとえ依頼者に不利な話を述べているときでさえです。

ディベートに話を少し戻しますと、相手のチームに手を挙げた判定員は、相手チームのメンバーが「(自社の)利益がなければ会社は成り立たない」という単純明快な話を実感を込めてするところに軍配を上げたのではないかと思います。それはやはり言葉の遊びではない部分に気持ちが動いたのではないかと思います。
翻って、味方のチームのみなさんの話を思い出しても、たとえば「われわれは普段『三方よし』、つまり、売り手よし、買い手よし、世間よし、の精神で商売をしている(近江商人の言い伝えだそうですが)」などといった主張をしていて、こういうのは論理がどうというより、素直にすっと胸に入ってくる言葉です。

そういうわけでやはり、人を説得するためには、論理的であることを前提としつつ、それだけではいけない、自らが深い自信をもちつつ、相手の立場にも思いをいたし、相手にメッセージが届くようにするのが大事だな、と実感しています。単なる言葉遊びの漫才が全然面白くないように。