案件について考えたり、処理したりするときには、結局どうなんやということを考えるクセがついています。
事実関係が非常に錯綜しているということはよくある話です。
ただ、法律家というのは、法律の基本的な理屈が身に付いている限りは、人の話を聞いていても、全部を同じウエイトで聞くということはせず、幹の話と枝の話を自然により分けるような感覚で話を聞いています。別のイメージで説明すれば、骨の話と肉?の話があって、骨の話はしっかりと聞いてメモしますが、その周辺の話はあまり力を入れて聞くことはありません。ただ、「肉づけする」とはよくいったもので、骨がない話はいったい何の話かさっぱりわからないものの、適当な量の肉の話がついていないと(贅肉はよくない)、話がいまいち説得的できでない、ということはあります。
話が別の方向に外れましたが、幹の話と枝の話、骨の話と肉の話というこの感覚は、基礎的な力のある法律家であれば、誰しもが持っていると思います。私なども法律の勉強をして弁護士になり訓練を積んだから、当り前のような感覚でいますが、法律家でない人とは論理の組み立て方が違うのかなという気になることもあります。
この感覚というのはロースクールや司法研修所で習う「要件事実」が頭や体にしみこんでしまっているからだと思います。
法学部に入る前は、むろん法律に関する知識が全然なく、法律というのは「人を殺したら○年以上の懲役」みたいなルールが無数にあって、それを片っ端から覚えていくのが法律の勉強だと思っていました。
でも、法学部1年生で感じたのは、法律は「故意または過失によって他人の権利を侵害したものは損害賠償責任を負う」のような、ひどく抽象的なものであって、それを読んだだけでは何が起こったら罰せられたり、お金の支払いを命じられたりするのか全く分からないものであるということでした。
ただ、これは先人(ローマ人?)の知恵からくるものといってよいでしょう。人間社会で起こるさまざまな出来事全てについて具体的、個別的なルールを作ろうと思っても、おっつかないし、ルールとルールとで矛盾が生じやすいでしょう。そこで、よく起こる出来事についてはその共通点を見出し、その共通点だけをまとめてルールとして作っておけば、同じ出来事が起こったときに「このときはこうしよう」と誰かが判断を下すときに基準があって便利だし、不公平ではなくなります。
そうやってできたのが法律で、「このときはこうしよう」ということが民法などには書いてあります。ここで、「このときは」の内容が複雑だったりするので、「このとき」の中身が何なのかをいくつかの要素・条件にばらばらにして考え、いくつかの要素がそろったときに「こうしよう」という判断が下せるようなルールを分析するのが「要件事実」の考え方です。このときは(要件)こうしよう(効果)という意味で、「要件効果」の考え方ともいいます。
私のイメージでは、要件という名の固い箱があって、そこに事実という粘土みたいなものを放り込んでいったら、箱の形に当てはまりやすい粘土はその箱に当てはまって、当てはまりにくい粘土は、どういうわけか、箱には入らないで、するすると下に落ちていく。粘土は形が変わるが、箱は形が変わらない。ただ、別の箱と取り換えることはできる。箱と粘土は全く異質のもの、みたいな感じです。よく分からないですね…。でも、ロースクールの学生と法律の話をするときには「この感覚を知ってほしいな」という気になります。
そういうわけで要件事実の箱を自分で頭の中において、それに合う粘土を探して人の話を聞くので、関係のない粘土?は欲しくない、という感じになります。
とはいえ、あんまり要件事実至上主義に陥っても、自分が正しくって、それに合わないのは間違いみたいな落とし穴に陥って判断を誤ります。一方では社会や身の回りで起こっていることを直視して、そこから勉強をするという謙虚な態度が必要なのです。
うまく説明ができていませんが、ご勘弁を。