2019年04月01日

論理で物事を考えることを心がけています。
弁護士である以上は当たり前ですが、資格があるからといって論理的思考が十分にできているとは限りません。
さまざまな事案にあたったり、仕事に限らずいろんな経験を積み重ねたりするなかで、その都度、論理的であるべきことを心がけていることによって、徐々に鍛錬されていくというのが実感です。

うちの事務所内でディスカッションするときも、論理で考えようという言葉が飛び交います。
改めて論理とは何かと思って広辞苑を引いてみると「思考の形式・法則。また思考の法則的なつながり。」とあります。
どういうことが論理的なのかを一言で表現することはできませんし、論理学を学んでもいない私の手におえるものではありません。
ただ、広辞苑に書いてあるように「法則」というのが一つのキーワードのようです。
「AならばB」といった法則があって、それにそって思考するという態度が論理的なのだろうと思います。

逆に論理的でないという状態がどうなのかは何となく分かります。

一つは、論理が飛躍しているということです。AとBとの間に法則がないために、どうしてAからBという結論が導かれるか、聞き手・受け手にはよく分からない、ということがあります。こういうことは往々にしてあります。

私が心がけているのは「一つ一つ」考えることです。AならばB。そこで確信が持てれば、次、BならばCといえるかなと考えていくということです。

どうでもよい前提問題で留まりつづけるのも良くないですが、何が論点かが腑に落ちてわかるようになるためにでは、愚直であっても自分の頭で一つ一つ考えてみることだと思っています。頭の中で考えるだけでは自分のなかで議論が回り続けるので、紙に手書きで一つ一つ箇条書きにして考えてみたり、それで調子が出て来れば、パソコンを打ちながら考えたりします。自分の思考過程を「見える化」することにきっと意味があるのでしょう。
このような愚直な作業を心がけてやっていくと、頭の回転が速くなってくるのも実感です。
原則は何なのかを意識して、その原則に照らして目の前の事柄が合致しているのか、逸脱しているのか、逸脱しているならば、そこに何らか正当な論理があるのか、ということが「パっ」と分かってくるようになります。
事案が複雑であっても、原則に照らして愚直に考える態度を続けていると、何が真の問題点なのか、その問題点を打破するために、いったいどういう手法があり得るのか、ということが芋づる式に思いついたりすることもあります。

私だけのイメージですが、視力を良くするために、複雑な絵柄を見せられて、じっーとみていると、眼の作用なのか脳の働きかで、立体的な図が目の前に浮かびあがってくるというのがありますよね。
ちょうどあんな感じで、論理が浮かび上がってきます。そして、その論理を落ち着いて、一つ一つ検証していきます。

もう一つは、今、ある論点について賛成反対の議論をして決着をつけようとしているのに、脈絡もなく、別の論点を持ち出して議論をしようとする態度です。
これもよくあります。会議などで、みんな言いたいことを言いっぱなしで、何も解決していかないという状態です。
会議の司会をする役が回ってきたとき、もちろん自由に意見を言い合う雰囲気もすごく大事なので、話を制止しすぎるのもよくありませんが、会議に参加しているメンバーが論点をできるだけ共有して、そして議論を噛み合わせて、ともあれベストじゃなくても一定の結論を出してみる、そのことをみんなで共有する、そのうえで更なるよい結論があるかどうか又議論してみる、というふうに話が進んでいくようすることを心がけています。

また、自分の頭を使って論理で考えないと、誰が何を言ったかで振り回されてしまうことがあります。
ある人がこういったから私もそう思う、あるいは、ある人がこういうだろうから私もそう思う、ということをしていると、その人の言うことが変わったり、予想が外れたりすると、なんとなく気まずい想いをしたりします。

このような論理、ロジックを意識して自身の考え方をまとめる癖を付けていると、自身の意見や見解に客観性が伴ってきて、自信をもって主張し、時には誰かを説得できるようになってきます。

ただ、他方で常々謙虚な態度はもっておかないと、自分の意見に固執してしまって変な結論を導いてしまうということもあります。
よく言われることですが「理路整然と間違える」ということもないではありません。

一つ一つの論理の積み重ねで物事を考える一方で、全体を見渡して、素朴な正義感、倫理観で判断することもとても重要です。
これを磨くにも、自分自身が楽しいことも辛いことも経験して内省し、相手の気持ちにイマジネーションを働かせ、本を読んだり、映画を見たりetc.。センスを磨くことも大事です。
そうすることによって、論理、ロジックも鍛えられるような気がします。
健全な意味での常識、正義感、倫理観に裏打ちされたものであってこそ、論理、ロジックと言えるような気がしています。